買い物帰りに咲は、いつも近くの公園に寄り道する。今日も赤い自転車のかごにスーパーの袋を入れたまま、ベンチにすわっていると、小さな手押し車にバラの花束を積んだおばあさんがやって来て、咲の隣に腰をおろした。
やさしいバラの香りがあたりに漂う。
おばあさんは、ふっくらした顔を咲のほうにむけた。
「あなた、いつもここで、子どもたちが遊ぶのを見てるわね」
「ええ、わたし、子どもがいないので…」
結婚して3年になる咲に、子どもはいない。子どもを連れた若いママを見ると、うらやましいと思うけれど、いまのままでも咲は幸せだった。
「そうなの。それじゃあ、かわいいお子さんに恵まれますように、はい」
おばあさんは車からバラを一本抜いて、咲の手に持たせた。
「あ、…」
おばあさんはにっこりほほ笑んで立ち上がると、そのまま風のように行ってしまった。
* * * * * * *
5年前、咲が働いていた病院で、交通事故で入院してきた彼、松本直(すなお)に出会った。そのころまだ大学生だった彼は、咲が 検温にいくとふざけたり、冗談を言って病室のみんなを笑わせた。
少年のように屈託のない直だったけれど、ときどき思いつめたように、沈んだ顔になるのを咲は知っていた。
咲が準夜勤だったあの夜も、消灯後の病棟の薄暗い廊下の窓から、ひとり夜空を見上げている彼を見かけた。
足音をしのばせて、後ろからそっと目隠しをする。
「だあれだ」
「その声は…。原田さん?」
「ぴんぽーん」
「あははは」
しんとした病棟にふたりの笑い声が響いて、あわてて口元に人さし指をあてた咲。
あのとき星を見ながら、直が言ったことを咲はいまも覚えている。
「原田さん、『星の王子さま』って知ってる?」
「サン=テグジュペリの童話?」
「おれさ、いまあの王子さまになった気分。美しいバラの棘に傷ついた少年ってとこかな…」
「どうしたの。いつもの元気ないゾ。だけど、松本くんって見かけによらず純粋なのね」
からかうように言った咲に、直はまともな顔で返した。
「けど、純粋さの持つ脆さを知らないと、とり返しがつかなくなる…」
「え?」
「おれ、失恋したんだ…。つきあってた彼女にほかに好きなやつがいた。それで酔っぱらってバイクを暴走させた。その結果がこれさ」
おどけるように笑って直は白い壁を松葉杖でコツコツとたたいた。
咲は黙っていた。
たった一本のバラのために、毒蛇に身をゆだねた王子さまのことを思う。
それほどまでに大切なものが、咲にはなかった。
純粋さの持つ脆さか…。
咲は年下の直のまっすぐな若さがまぶしかった。
心のなかで19歳のときの自分と重ねていた。白衣の天使目指して輝いていたあのころが、すっかり遠い日のことのように思えた。
咲は疲れていた。
憧れていたナースの仕事は想像していたよりも厳しかった。どんなに頑張ってみても、決められた仕事をこなすのが精いっぱいで、患者さんの心まで気遣うゆとりはなかった。
すがるような目で咲の手を握りしめ、なにかを訴えようとする患者さんがいる。
そばにいてあげたいと思う。だけど時間がない。
「ごめんなさい。あとでね…」
そう答えるたびに、咲の心は嵐のなかの木の葉のように揺れ動いた。
少しずつ咲のなかで壊れていくものがあった。だけど、もっと強くならなければと、咲は思うのだ。
咲をじっと見つめる直の視線に気づいた咲は、明るい声で言った。
「気にしない。気にしない。バラは一本だけじゃないわよ。元気だして」
* * * *
その晩、夢を見た。
金色に輝く髪をした小さな男の子。薄緑色の宇宙服みたいなものを着て、首には金色のマフラーを巻いている。
どこなんだろう…。
咲の立っているところから見えるものは、風にゆれる野の花と、男の子の膝ぐらいまでしかない火山だけ。
ぐるり見まわすと360度、地平線のむこうに、無数の星がきらめいていた。
咲がきょろきょろしていると、男の子が話しかけてきた。
「ねえ、ぼくの大切なバラを知らない?」
大切なバラって…。もしかしてこの子は…。
咲は少女のように胸がときめいた。
「あなた…もしかして星の王子さまじゃ…」
男の子は鈴をふるように笑った。
「咲。ぼくだよ」
「?」
男の子をじっと見ていた咲は、目をまるくした。
「松本くん…?」
小さな宇宙のような男の子の瞳は、あの松本直にそっくりだった。
* * * *
次の朝、病棟の廊下で直とすれ違った。
「きのう原田さんの夢見たよ」
どきんとした。
「へんな夢じゃないでしょうね」
いたずらっぽくにらんだ咲に、直は意味ありげにウィンクした。
「退院するときに話すよ」
3カ月がたって、ギブスのとれた右足をかばいながら、直は退院していった。
玄関まで見送りに出た咲に、直は夢の話をした。
彼の見た夢は咲の夢と同じだった。
直は、はっきりとした声で咲に言った。
「おれはきみに会うためにここに来たのかもしれない。人生に偶然はないって言うだろ」
それがきっかけで直とつきあうようになり、直の就職が決まった年に結婚することになった。
仕事は思いきってやめることにした。
さんざん迷っていたときに、直にそのことを話したことがある。
「ほんとは続けていく自信がないの。厳しい現実にめげずにちゃんとやってる人もいるのに、わたしったらだめね。もっと強くならなければ…」
しばらく考えてから直が言った。
「弱くたっていいさ。がんばって強くなろうなんて思うなよ。っていうか、だれにとっても正しい生き方なんてないんじゃないのかな。咲も自分に合った生き方を選びなよ」
直の言葉に咲の迷いは消えた。
はじめての背広姿に照れ笑いを浮かべる直が、なんだか頼もしく見えた。
「直は変わった」と咲は思う。
あぶなっかしいだけの純粋さが昇華されたみたいに、いまの彼にはしなやかな強さがある。自分の弱さを受け入れることは、もうひとつの強さなのかもしれない。
それはありのままの自分を愛すること…。
そしていま。咲は直とのささやかな暮らしを大切に思う。
これからも、ふたりの庭に咲いたバラを、雨が降っても風が吹いても守っていくつもり。
来年の春、小さなバラがもう一本ふえる予定だ。
そのことを直はまだ知らない…。