朝方、寝てたら「そつぎょう」という言葉が浮かんできた。
いよいよ人間卒業かと思いきや、目覚めとか悟りとか、
そういう類いのことらしい。
昔から精神世界が好きで、これを伝えるのが我が使命とばかりに、
ブログでもいろいろ書いてきたが、興味のない人からすれば、
よけいなお世話だよなあ、と思うようになってきた。
なので最近は、その手のブログもあまり見に行かなくなった。
目覚め話でワイワイ盛り上がっているコメント欄を見て、
正直ついていけなくなったせいもある。
老子の言葉に「言挙げせず」と言うのがあるが、目覚めや悟りなどは、
言葉にすると別物になるので、あえて口にしないのが身の為でもあり、
他人の為にもなると思うしだい。
そんなものとはまったく縁のない、お百姓のおじいさんおばあさんの方が、
精神世界の先生がたより、よっぽど悟ってるなあと思うことがある。
天気の良い日は毎日、畑や田んぼに出て、鍬をふるい土を耕す。
日に焼けて顔は真っ黒でシワだらけ。腰もまがってる。
だけども毎日の生活のなかで、地に足の着いた瞑想やってるもんで、
存在そのものが悟りっていう感じがする人っていますよね。
お年を聞けば「89歳」とか聞いてびっくりする。
小難しい知識なんかなくても、話してること聞いたら、
お釈迦様みたいやな、なんて感心してしまう。
最近思うんだけど、精神世界とかスピリチュアルって、
とりたてて言うほど特別なもん、高尚なもんじゃなくて、
普通の生活のなかにあるんじゃないのかな。
オーラが見えたとか、守護霊の声が聞こえたとか、神秘体験をしたとか、
どうでもいいやん。そんなこと。笑
目覚めるには、この瞑想がいいですよとか言うのも
はっきり言ってよけいなお世話。
たとえばの話、お百姓のおじいさんおばあさんに、
精神世界の話なんかしてもチンプンカンプンだと思う。
この場合は、とれたてのキュウリでもかじりながら、
お天気の話をするのがスピリチュアル。
「今年は寒かったもんで、野菜のできが悪うてなあ」
「ほんま、今年はおっかしな天候ですね~」
なんてね(^▽^)
瞑想もいいけど、外に行っていろんな人と話して、普通の人をやるのも
スピリチュアルかなあ、と思うこのごろであります。