全き独りにて

OSHOの知恵の種子からー


まだ夜はあけぼのに道を譲らず、

空には立ち去らんとする星々がちりばめられたままだ。

川は銀の細い流れのように見える。

砂は夜霧の雫に冷え、風は身を切るように寒い。

深い静けさがゆきわたり、

時折聞こえる鳥たちの声が、それをいっそう深める。

一人の友人と一緒に、

少し早くから、この人里離れた場所に来ている。

友人は、独りでいるのは怖いし、静寂に圧倒されると言う。

彼はともかく多忙でい続けられるときは元気だが、

さもないと、奇妙な類の苦悩や悲しみが、彼を圧倒するのだ。

この苦悩はみんなに生じる。

誰も自分と向き合いたがらない。

自分のなかを見るとき、人は当惑を感じる。

独りでいることが、人を自分自身へと置き去りにするので、

怖いのだ。

もしあなたが他人に深く巻き込まれていれば、

自己は忘れ去られる。

それは無意識の一種であり、逃避だ。

人は一生、この逃避に忙(せわ)しない。



だがこの逃避は儚いものだ。

人が自分自身から逃れられる術などないのだから。

その逃避の努力は役には立たない。

彼自身が、避けようとしている当の相手なのだから。

どうやって人が自分自身から避けられると、

どうやって自分から逃走できるというのだろう!

あらゆるものから逃げ出せても、自分からは逃げ出せない。

一生走り続けながら、

私たちはどこにも辿り着いていないと気づくだろう。

それゆえ、知性的な人々は自分から逃げ出したりしない。

むしろ、彼らは自分と向き合う。



もし人が内側を見るなら、空(くう)を体験する。

限りなき無が内側にある。

それだから、当惑して、外へと逃走するのだ。

彼はこの空を埋めようと果てしなく奮闘する。

それを世界で、関係性で満たそうとする。

だがそれはどうやっても満たせない ー満たすのは不可能だー

それこそが彼の苦悩であり、人生における失敗なのだ。

死はこの苦悩を実にはっきりと見せつける、

死は、まさに生涯逃げ続けてきた、

この空のなかへと彼を投じる。

そしてそれこそ、死の恐怖が最大である理由だ。



私は言う、自らの空から逃げ出すのは愚かなことだと。

生はそれと向き合い、入っていくことで達成される。

この無に達するとき、私たちは自らの本性を悟る。



宗教とは空へと入ってゆくことだ。
自らの全き独り在ることのなかで人が体験するものが、宗教性だ。



知恵の種子
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[ 2011/07/20 19:45 ] satorix | CM(0)
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