先日紹介したエックハルト・トール氏の自伝の一部を書き起こしてみました。
現代人の思考の病についての指摘は、思い当たることばかりで汗が出ます(^^;
全部、書き出そうかと思いましたが、長いので途中であきらめました。
すべての体験と知覚の背景に、内なる平和がありました。
それは思考の背景にさえ存在し、それ以降、消え去ることはありませんでした。
その平和について、しばらくは言葉に表わせずにいました。
その後、初めて仏教やキリスト教、現在の霊的な教えを紐解くうちに、
何世紀にも渡る文化的な追加、誤った理解の底に隠れた仏教やキリスト教の真理が、
私には直ぐ理解できました。
それら、原初の教えが示していた真理です。
それらの教えによって、逆に、私に起きたことを理解することができました。
たとえば、新訳のイエスの言葉、
「すべての理解を越えた平安」という表現を読んだとき、
「これが私が感じたことだ!」と共鳴しました。
それは理解不可能な平安でした。
彼も同じ体験をしたのでしょう。
外側の世界に起因しない平和が、突然表出したのです。
何か素敵な出来事が起きたわけでもなく、外側の原因によらない平和なのです。
のちに禅の先生を訪ねた時も、その真理が直ぐにわかりました。
禅の教えも広い文脈において、私の体験を理解させてくれました。
ある仏教徒と話したとき、禅は終わりなき思考の終焉がテーマ、
無思考が禅の究極だと彼が語ったとき、それまで何故か気づかなかったことに気づきました。
あの夜の出来事以来、私の思考は8割が減少していたのです。
確かに、あまりものを思わなくなりました。
それで、あのような平安があったわけです。
ほとんどの人が絶えず強制的な思考を強いられ、そのほとんどは無駄なものです。
私が「メンタルノイズ」と呼んでいる、その思考に終焉が来たのでした。
もちろん、必要な時は考えることができます。
それ以外は、巨大な無思考が広がっていました。
そして思考をはさんだ長い無思考の間には、素晴らしい平安が存在しました。
内なる平和は、私が不安を抱えている時から、もともとそこに在ったのだ。
ただ、不安と過剰な頭の活動がそれを覆っていたのだと、そのとき知りました。
それが、徐々に私の霊的教えに発展しました。
外側に求めているものは、もともと内側にあるというのが私の教えです。
活発さ、平安、内なる深い充足感は、基本要素として、すべて一人一人に備わったものです。
それらは、外側への探究によって得なければならないものではないのです。
しかし霊的な探究者も含め、誰もが何かを探しています。
自分を満たしてくれる物や体験、知識、富の集積を求めています。
が、それでは自分を見つけることはできません。
あなたという存在の本質は、未来にではなく、いまの中にあるからです。
ー 中略 ー
誰の中にも同じメカニズムが働いているのです。
私の今の教えは、その次元があなたの中にあるということ。
それは、普段自分自身と認識している自分よりさらに深いところ、
ほとんどの人が自分と信じている個人的経歴よりもさらに底にあるものです。
いまという瞬間に意識を置くことで、その次元を認識できます。
「いま」と内なる整列ができたときのみ、それはやってくるのです。
いまとは、人生(いのち)そのものです。
思考の流れは常に過去と未来を気にしています。
ほとんどの人は、個々の思考を自分自身として認識します。
思考があなたをしっかり掴み、思考があなたのIDとなるのです。
発生した個々の思考をあなた自身と信じます。
ほとんどの人は、一日中、思考の連鎖に引きずられています。
ある思考から別の思考へという風に。
その思考の流れの中には、頭が生んだ私、自己がいます。
それは、過去の記憶、体験や、頭が自分自身と認識したものが自己同一化されたものです。
それらはすべて思考形態です。
私の所有物、私の知識、私の体験、人によって受けた行為、私が人にした行為など、
何であれ、頭の中で自己同一化したもの、それが私になります。
そこで、思考との自己同一化、思考の連鎖から抜け出るには、いま現在にアクセスすることです。
ところが、ほとんどの人には、いまが存在しません。
彼らの興味が、次の瞬間、またはその後にのみあるからです。
常に未来に、次の瞬間のために生きているのです。
無意識のうちに、この瞬間より、未来のために到達する必要のある次の瞬間の方が、
より大切だと認識しているのです。
どうしても到達する必要のある未来のある瞬間、それが今日であれ、明日であれ、
どんな行動であれ、目的地点に早く着いてしまいたいのです。
程度の差はあれど、無意識にそうしているのです。
思考形態として以外に未来が存在しないことに気づいていないのです。
未来に生きようとすることで、概念としての現実にとらわれたまま生きているのです。
その人にとって概念としての現実の方が、常に、直近の今である人生(いのち)より重要なのです。
人生とは、すべて、いま現在からできているからです。
この意味合いの重要さに気づく必要があります。
あなたの人生(ライフ)がすべて今の集大から成ることに。
人生(いのち)が、今この時でないことはありません。
過去を思い出すにしても、思い出すのはいまなのです。
未来を描くにしても、いま、なのです。
しかし、あたかも今が越えねばならぬ障害物であるかのように人は生きています。
決して辿り着くことのない、もっと良い場所を目指して。
生きることが困難となる愚かな生き方です。
我々は数千年に渡り、このような生き方を条件付けてきました。
ある点で、思考能力とは、すばらしいものです。
人間の概念化する能力は、はるか昔に生じました。
これにより人類は、新たな次元を手にしたのです。
この能力により、地球上で最強の種となりました。
思考能力により、肉体としては劣勢でも、他のすべての種を征服できたのです。
人類の思考能力は緩やかに発達しました。
旧約の創世記には、アダムとイブの神話があります。
彼らは、善悪を判断する知識の樹からリンゴを食べました。
「これ」と「それ」の違いを分別する能力、分析し、分ける能力は思考力によって生まれます。
能力は徐々に発達し、最初のうちは何も問題はありませんでした。
ところが何千もの間に、思考能力が益々拡大し、人類は内なる本質との繋がりを失くしました。
それを、being(存在)と呼ぶことができます。
生き生きとした感覚であり、より深い知性とも言える、去来する思考を越えたものです。
こうして、思考習慣の増大により、徐々に深いレベルでのライフとのコネクションを失ったのです。
いまでは、頭が考える私たちのイメージが、本来の私たちの姿だと見なされています。
人類は必要な進化を通ってきました。
それは、頭(mind)のステージ、思考のステージと呼べます。
この間、思考によって完全に「憑かれた」状態でした。
ほとんどの人が、まるで思考を止めることができない状態です。
強圧的な力により、思考せずにいられないのです。
思考能力によって、自分という感覚を得ています。
人類はいま、この進化過程の最後に到着しました。
この先に進むためには、頭(mind)を越えていく必要があるのです。
強圧的な思考に取り憑かれず、深い存在(being)に降りていく。
それは一度失くしたものを取り戻すことと言えます。
失くしたものを取り戻した場合、より深い意識が伴うものです。
これが、私たち人類がいま通っているプロセスなのです。
なぜなら、人類の意識の進化変容は、もはや、ぜいたく品でもオプションでもないからです。
人類史上初めて、意識の変容が生き残りのための不可欠な要素となったのです。
なぜなら、人類が日々、地球を害しているからです。
極端な言い方をするなら、本来パラダイスであるこの星に地獄を作り出しているのです。
人類はこの先、どうなっていくのでしょう。
失くした楽園を取り戻せるのか、それともこのまま破滅の道を進むのか。
昨今の世界の様相を見ていると、楽園いまだ遠しという感じがしてなりません。
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>自己啓発本ジプシー
私もマーフィーを始めとする願望実現や成功法則にはまってた時期がありました。
「ツキを呼ぶ魔法の言葉」「引き寄せの法則」「ホ・オポノポノ」などなど、
次から次へと新しい法則ができて読むのに忙しかったです。
「あるがまま」に目覚めた?きっかけは、老子の思想に出会ってからかな。
いろいろやったけど、なにも変わらなかったので、年も年やし、笑
「あるがままでいいやん」と開き直りました。
若い頃は老子より、幸せになる○○の法則のほうが魅力がありますものね。
それはそれでいいんやないかなと思います。
幸せもひとつの観念なんですよね。
幸せとか不幸とか「意識しない幸せ」があるんだと知りました。
いまここに。
おかえりなさい^^
私も「自己啓発本ジプシー」歴が長く、「○○したら、幸せになる」
みたいな本を読みあさりました。
一時的には「なるほど!」と思うのですが長続きせず、いいかげん食傷気味だったところにこの考え方に出会いました。
今まで、外に何かを求め続けてきた私は、正直愕然とし、結局のところ「幸せ」などというものなどないんだと落ち込みました。
ま、しかし(笑)
最近は「今」に自分を引き戻すことにより、そんなことはどうでもいいんだと、昔の100分の1くらいは思えるようになりました。
猫じゃないけど、自分の人生も先が見えるようになってきたので、
その短い先を考えてウダウダしてるのはバカバカしいと思えるようになってきました(思うようにしています)
ありがとうございます^^
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